■プロローグ■












ハッ… ハッ… ハッ… ハッ……

「……、……、……、……、」

ハッ… ハッ… ハッ… ハッ……

「……、……、……、……、」



人間の領域を大きく逸脱した夜の森を、一陣の脚風(あしかぜ)が駆け抜ける。

風の尾にあるのは複数の獣の、グル…と唸りを交えた走息で、
風の先にあるのは人間の…それも、華奢な体躯から発せられる、少女の走息から立つ音だ。

細い呼吸に僅か遅れてたなびくしなやかな金髪が、
時折、茂る葉の天井の隙間を縫って差し込む光に美しく輝き、幻想的に光の粒を残す。

それを標とするように追い縋る獣達は、エモノの予想外の速脚にペースを乱されたのか
口端から涎をたなびかせ、幾分呼吸を乱しているようだ。

対する少女の息は未だ乱れ少なく、
規則正しい速調で肉体に火をくべ続けている。

その上、二足の愚鈍な生き物にあるまじく、
進行方向にあるものが藪であろうが蔦の群生地であろうが、泥沼であろうが、
一切の躊躇も迂回もなく、それらを足取り鈍らせる事さえないまま真っ直ぐに抜けて行ってしまうのだ。

獣達は各々四足の誇りにかけてその跡を追うが、
藪に視界を邪魔され、沼にエモノの倍ある脚を取られとして、
おそらく平地であるならとうに追いついていただろう人間一匹に
未だどうして追いつけずに居る。

森は奥へ奥へと行くに従ってその鬱蒼たる様を色濃くしてゆき、
いよいよもって、獣達の並びが乱れ始める。

先頭を駆っていた獣が叱咤の唸りを上げるが、
後続で脚をもたつかせ始めている若い獣はまだ狩の経験に乏しいらしく、
エモノの通った障害路のことごとくに体力を奪われている体たらくであった。

が、誇りだけは一人前らしく、だらりと舌をこぼしながらも必死に群れに食らい付いてきている。

それに対してさえも地を蹴る後ろ足で土を浴びせるのが
彼らの流儀なのだ。

これで沈めば、ただの益体なしとして、生涯群れの中の恥さらし。

場合によっては、現在ジャド統括の任に当たっている長に噛み殺される事もあるだろう。

なんと情けないやつか、と。


それに比べてエモノの俊敏たる事には、追い詰められない苛立ち以上に感嘆さえも禁じえない。

二足で走りの真似事をしている風情が、よく森というものを理解し、
また視界の低い獣が不得手とする路を的確に選んで抜けるのだ。

それとてニンゲンには難を極めるものであろうに、
先を行くエモノの脚は一向に衰える気配を見せない。

あれが――噂に聞く、アマゾネスというやつか。

森に溶け込む深緑の衣装(パッデドレザー)に牙を牽制する長い槍(ブロンズランス)、
ローラント地方の民に多く見られる金髪碧眼と
獣の鼻を欺く青植物の匂いを白肌に含んだ体臭は、
かねてより我らビーストキングダムが攻めあぐねていた森の戦士の姿に一致している。

……なるほど、これでは攻略にたたらを踏むわけだ。

が、それはあくまで戦の場であってのこと。

逃げ惑う小娘一匹に対する四足の狼兵十数では、これを戦ではなく狩りの場と言うのだ。

先日巣を失ったと聞くローラントの敗残兵であろう…それも容姿からするに、まだ経験の浅い子兎戦士ごときには、
少なくとも牙で後れを取る事など考えられない。

足で追いつきさえしたなら、その先はこちらに分がある。

そしてどの地であろうとも森というやつには必ず『行き止まり』が存在しているのだ。

これ以上踏み込んではならぬという、
神秘邪悪なんらかの巨大な力の住まう領域が。

そこへ至った瞬間こそがエモノを追い詰める、好機。

もう、さほどもない。

エモノの前方数百足から感じる『威』は、エモノの進行に対して壁のように広がっている。

このまま行けばエモノは逃げ路を失い、
領域に踏み込むか、我らと対峙するかの二択を迫られ……間違いなく後者を選ぶ。

その方が、遥かに生き延びられる可能性があるからだ。

一国の軍に匹敵あるいはそれすら一飲みにしてしまうような『存在』が森の奥には住んでいる。

……というよりも、その『存在』から零れた力の片鱗が『森』という領域を形成しているのだ。

これに対して、人や獣は、一定の域までの立ち入りを許されているだけに過ぎない。


森を知る者である以上、アマゾネスもまた禁を犯す愚を理解しているだろう。


時機である、と後ろに続く者達へ包囲陣を準備する合図を送らんと
片目を後方に向ける。


――ザッ、


と、その直後、脚が止まった。


――いない。


否、『姿が無い』



先頭を切っていた獣が振り返ると、
いつの間にか、そのすぐ後ろを付いてきていた筈の部下達の姿が何処にも見当たらなくなっていた。

だというのに面妖な事。

その耳に息遣いだけは聞こえているのだ。

更には匂いも。


だというのに、姿だけが無い。


数十足向こうでは、アマゾネスの足音が遠ざかってゆく。


しかし事態はもはやそれ所ではないという状況に至っていた。


――


立ち止まっているというのにも関わらず、
『ずっと同じ距離から聞こえ続ける、走呼吸』に混じって、
一瞬、喉を潰したような情けない悲鳴が聞こえる。


全てが奇怪な状況だった。


仲間の姿がなく、
立ち止まっているというのに、『走っている音とその息遣い』が
『ずっと同じ距離から聞こえ続けている』

なによりも、そんな異常事態に至って……僅かも危機感を感じられないで居る。


彼らは人と獣の姿を持つ、獣人である。

それゆえ人の持ちうる思考能力も備えていた。


その思考能力が、
『六感的危険信号が、このいかにも危機的な状況に反応していない』という、
『恐るべき危機』を訴える。


もしや――

と考え至り、嗅覚に神経を集中させて鼻を利かせる。


直後


「?!」


これまでまったく無反応だった危険察知本能がけたたましく心臓を打ち鳴らし、
まるで巨大な獣に噛み砕かれる瞬間のような冷たい血液を全身に噴出させる。

つい今しがたまで『まったく同じ距離』から聞こえていた同胞の『走呼吸』が
尋常ならざる速度で迫ってくる。

その数……『百近く』、『全方位から』…!!

次いで、匂いが、気配が、視線が、同胞に対して感じるはずのない、圧倒的危機感が
おびただしいまでの群れを成して周囲に『発生』し、
気づくと獣は

「――――」

先ほど耳を掠めたそれと同じ、
イヌ科の生物が死を向かえる瞬間に喉を引き攣らせる、情けない声を出していた……。



 

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