ここ数日分の記憶が曖昧で、
ともすれば未だに悪い夢を見続けているかのように、
どうしても頭の中が芯まで冴えない。


脳の奥に霞み掛かった…いや、泥が堆積しているかのような……。


思考も上手く要領を得ず、
見るもの聞くもの触れるもの、あらゆるものの周りに見えないベールが掛かっているように
感覚が不明瞭だ。


その悪夢は…既にはっきりとした時間さえ思い出せないが、
およそ十日以上にも渡って続いている。





目に焼き付いているのは、炎の色。

灼熱にあらゆるものが揺らめいて歪み、
その中を黒く揺らいだ影のような何者かが、数多、徘徊している。

住み馴染んだローラント城塞は悪夢が始まると共に
あまりにも現実離れした光景へと塗り変えられ、
極めつけ、あってはならない『それ』が、リースから現実感を略奪せしめた。




焼け落ちる玉座の間に座した、父の亡骸。




その姿に尊厳は無く――

千里眼を唄われた両の目を抉り出され、
獅子を髣髴とさせる立派な髭は無残に毟り取られていた。

裂かれた口からは、リースが尊敬している磨り減った歯を持ち去られ、
腕輪や脚輪など身に着けていた右腕と左足が、玉座の前にうち捨てられていた。

その周囲には18本の指が散乱し、
王の衣装として身に着けるもの以外で彼が唯一自らの意思で身に着けていた、亡き母との結婚指輪までもがその姿を消している。

見当たらない二本の指は、
空洞となった目窪の奥に押し込まれていた。

極めつけ残虐なのが……そんな状態になってさえ、まだ息をしていたという事。

傷口……いや、損壊箇所が、焼かれていた……。


それは、人を殺傷せしめた跡ではない。
物を壊した跡だった。
暴虐な子供に遊び壊された、玩具のように――



もとより盲目であった王はついぞ悪魔が奪い去る事のできなかった千里の眼で
娘が生き永らえていることを感じると、
最後の力を振り絞って往くべき路を示し……そして、息絶えた。



……その亡骸にすがり付いて泣きじゃくる間は許されなかった。


父の息が絶えるか絶えぬかの間に、いくつもの影が揺らめき迫ってくる。

怒りさえ沸き立たぬまでに心を打ちのめされたリースは乱心のままに逃げ惑い、
時折狂ったように槍を振り回し、無様に壁に激突し、悲鳴とも咆哮とも付かない声を上げて気を違えた。


そこで記憶が酷く曖昧になり、
次に覚えているのは、ローラント城塞の建つ山腹とその隣に聳える小山の頂とを結ぶ吊橋の上から見た、
無残に蹂躙されつくしたアマゾネスの誇りの姿。


もの心付いた時から雄々しく巨大に、力強く聳え、
いつ如何なる敵にも屈せず、一分の隙も無く決して敵の侵入を許さなかった無敵の城塞。


どれほどの大群に後を追われていようとも
そこにさえ逃げ込む事ができたなら、敵は諦めて背を向ける。

唯一、絶対の安心を覚えられる、
アマゾネス達全てを守るもう一人の父のような、
……アマゾネス戦士達全ての、心の拠所。


それが、得体の知れぬ、悪夢のような影達に支配されて
立ち上る炎と共に不気味に揺らめいている絶望の姿。


まるで憧れた絵本の英雄が、自分に対して牙を剥いたかのような悲壮に沈むまま、
リースはよたつく脚を槍で支えながら森の中へと身を沈めた。


まだ経験の浅い頃、歩きなれない山道に体力を失い、槍を杖代わりにした時などは
先達のアマゾネス達からこっぴどく叱られたものだ。


槍は牙であり誇りである。
死に面した獣でさえ
牙を地面に突き立てて這いずるような無様は犯さないというのに、
王女たる貴女がそのような無様を以て
この先貴女の後ろに続く者達に何を示そうというのか。 と。


それ以来、無意識的な部分からして地に槍をつけることをしなくなったリースだが、
この時、胸の底に焼きついた誇りは悪夢の炎に溶かされて無様に崩れていた……。


道の無い山林を選んだのはアマゾネスとしての習性だろう。
幸い追っ手と遭遇する事も無く、またほぼ直線路を通って来たため
山林を抜けて麓の港町に付いた時点で、リースを狙う視線はどこにも無かった。


そのまま、朧げな記憶を頼りに船へ乗り込み、また記憶が曖昧になる。


リースが今の身の丈の半分あったかどうかの頃に、
父に連れられて一度だけ国外へ出た時の記憶が
彼女を海原へと逃がした。

聖都ウェンデルへ……

耳に残る父の最期の言葉。

聖都ウェンデル…光の司祭……


心神喪失状態に陥る中、
船揺れに平衡感覚をやられ、
床に張り付いたまま、夢とも現ともつかぬ、ぼやけた十数日を過ごす。


時折意識が戻っては思い返すように父の遺言を呟き、また目を閉じるという、病人そのままの日々を送った。

……何度か声を掛けられ、
それから額に冷たいタオルを当ててもらったような記憶が残っている。

ぼやりと開いた眼は焦点を得ぬまま赤い色だけを映して閉じ、
それを何度か繰り返したような気がする。

赤…赤…赤…城塞を焼き包む炎の赤……無残に殺害された父の血の、焼かれた肉の赤………
赤……。 赤は、酷く忌まわしい色だ……

だというのに……その時瞳に映り込んだ赤は僅かの不快も感じさせない、
僅かな青みを含めた優しい赤だった……。

聖都ウェンデル…光の司祭……赤…赤い髪と……強気な瞳のお姫様……

夢うつつの中で溶け合った現在と過去の感触が
幼い頃、父に連れられて行った聖都ウェンデルでの日々を夢に見させる。

確か…あの時は世界各国の首脳会合があって、

そこで赤い髪と強気な瞳の愛らしい、魔法の国のお姫様と出合ったのだ。

城下町を連れまわされて、返しに森やその奥にある野生の花畑などへ連れまわした。
沢山の初めてを共有して、屈託ない少女の笑いを交し合った。

王女でもない、アマゾネスの戦士でもない、一人の女の子として過ごした…宝石箱の中の思い出。




次の記憶は宿の中。

リースは見慣れぬ宿の一室に寝かされていた。

口の中に、滋養効果のある『まん丸ドロップ』の破片が残っており、
誰かから看病を受けていた形跡が見られる。

都合、十数日眠りこけていたためか、
……あるいは胸の宝石箱から元気を貰ったためか、
意識と肉体の調子は船に乗る前と比べて格段に回復していた。

とは言え、胸にはどうしようもない巨大な空洞ができて心寒く、
身体感覚も、軽快というよりは実の無い、抜け殻のような脆さを伴う、空虚な軽さだ。



時刻は真夜中。


立て付けの粗末な木窓の隙間から月の青白い光が差し込んでいる。

部屋には二つベッドがあり、その上には自分のものではない荷物が残されていた。

が、肝心の、その持ち主の姿が見当たらない。


おそらくは海上からここまで自分を介抱してくれていた人物だろうと見当をつけ、
それから少し考え事をして、宿を出る。


礼節の点から言えば直接恩人に顔を合わせるのが筋というものだが、
今この瞬間が現実だとするなら、リースは得体の知れない連中に追われる身である。

万一、あの残虐で掴み所のない悪夢に恩人を巻き込んでしまったとあれば
それこそ恩の仇返しも無恥の極み。

礼を失することで己に感じる嫌悪とはとても比べ物にできない。



なので万一の際にと身に着けることを義務付けられていた高価な指輪と
礼を綴った手紙を残して荷を掴み、早々に宿場街を後にした。



宿場街から中央地へ足を進めながら、現在位置が港町ジャドであることを確認する。


宿を出たからにはすぐにも発つつもりでいたが、
直前に確認した荷袋の中に食料の用意が無かった事に気づいたリースは
店を求めて商業区へと足を伸ばした。




しかしそこは死んだように静まり返り、
出歩く者の姿は猫一匹として見当たらない。

時刻が時刻と言えばその通りなのだが、それにしても人の気配が無さ過ぎる。

ローラントに居た頃、麓の街に降りる事さえなかったリースには知るよしも無い事だが、
こんな時間だろうと、大抵は店の二階で商人がその日の帳簿やら何やらを綴るためにつけた明りや
倉庫から夜通し商品の整備に励む小遣い達の声なんかが聞こえてくるものだ。

しかしこの街にはそれらが、一切無い。

思えば宿場街や自分が寝かされていた宿屋も一切の明りを点さず静まり返っていたし、
中央部と思しき広間にも生活の様子が見て取れる灯りが見受けられなかった。


時折見かける明りといえば、中から野蛮な声を響かせている酒場ぐらいのもの。


アマゾネス戦士とは言え王室育ちのリースともなると
やはり世間ズレした観念を持ってしまうのも致し方のない事で、
他のアマゾネス戦士達もあまり良いように語らなかった事から、
酒場というものに対する心象は悪い。

ようするに、ゴロツキや山賊のような連中の溜まり場というイメージが定着してしまっていて、
旅人が時間外れに食料を調達する場として有効であったり
周辺地域の経済事情や天候地形の情報などを得るに当って有用な場であろうという発想に至るまで、
ややしばらくの時間を要した。


それでも聡明な彼女は前情報も無しに酒場の有用性へと考えが至り、
商業区から宿場街手前の盛り場へ引き返すと、
何軒か立ち並ぶ酒場の内から一番声の少ない店を選んで戸を開く。



酒場が静まり返ったのは、彼女が店に立ち入って四歩目あたりだろうか。

夜の中に在って上下八隅に至るまで灯火の明りに満ちた空間はどこか安心感を与える温もりを湛えており、
外の不気味なまでに静まり返った様子に、知らず強張っていた肩から幾分力が抜ける。

テーブルが八台。

入り口から奥壁手前に設けられたカウンターまでの空間に配置されており、
それらには一目見て戦士と解る風体の男達が行儀悪く腰掛けていた。

まず最初にリースに目をやったのはカウンターの奥で揚げ物をしていた壮年の男で、
その視線からカウンター手前に座っていた客が振り返り、
会話が止まった事で次々と闖入者に視線が向けられる。

ほぉ…と感嘆のような唸りが聞こえた。

リースは、自覚していないが……男百人がすれ違えば女も合わせて百五十人が唾を飲み込まずにいられないほどの美少女である。

細くしなやかに培われた美しい肉体は柔軟で無駄なく、理想を込めて磨き上げられた女神像のそれのよう。

金の髪は蝋燭の明かりを受けて一層濃い黄金色を放ち、
男というものをまるで理解していない無防備さからか、
深緑のアマゾネス装衣から零れんばかりに実った乳房が一歩ごとに揺れる様などは
えもいわれぬ魅力に満ち溢れている。

それは国境人種、果ては次元をもを問わず男達の欲望を掻き立てるもので、
在り得る通り、数人の客が椅子から腰を上げる。



周囲の空気が豹変した事に気づいたリースはすぐさま身を引き締めて槍を握る手に力を込めたが、
相手もさるもの。

どうやら酒場の客は皆同じ団体に属する戦士らしく、
統率の取れた動きで各々最短の移動を果たし、
リースが周囲を見渡し終える一瞬の内に包囲を完了していた。


包囲の向こうで、揚げ物を放棄した壮年の男だけが顔を青くしている。


じり…と一歩包囲が狭まると獣の臭いが鼻をつき、
過去幾度かの戦の経験から自分を取り囲んでいる連中が獣人であると気づく。


……やはり心神喪失状態にあるためか、ことここに至るまで気づかなかったのは、らしからぬ失態だ。


平常の精神状態だったなら、入って一歩目で
これだけの数の戦士に対し剣の一本も見当たらない事からここに居る者達の正体を看破できていただろうに……。


包囲網が更に迫り、背後から手が伸びる。

それを槍の柄で打ち据えた瞬間、

――狩りが始まった……。




   

 

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