ほぼ全ての地形が障害になりえぬよう、森の歩き方は熟練している。

ならば後は相手と自分の身体機能の『差』に応じて、
自分にとっては足枷にならないが、相手にとっては難を来すコースを取るのみ。
……というのが、逃走術の基本思考である。

こと山林においてのゲリラ戦術をとることが多いアマゾネスは平均して皆がこの程度の脚を持っている。

森へ逃げ込んで数分の内は土地違いから馴染みの無い植物への対処に僅かばかり足が鈍ったが、
早々とそれらの特徴を捉え、木々の並びから沼や突破困難な群生地帯を予測し得るまでに至ると
追っ手との距離を徐々に離して行ける程度の移動力を獲得する。

とは言え、単純な脚力だけで計るなら追っ手の方が遥かに疾い。

酒場を脱する際に見捉えた姿から察するに、
狼の姿へ変態した際の四肢の筋肉量は最高速度に達した時点でリースの1.5倍ほどに至るだろう。

が、その肉質は固く、固い筋肉は単純運動に於いては多分に力を発揮するが、反面、複雑不規則な動きを不得手とする嫌いがある。

なのでリースは街を脱する際もできるだけ多くの角を曲がって追っ手の脚を最高速まで高めないように路を選び、
同時に幼い頃の記憶から街周辺の地形を思い浮かべて、とにかく海と反対の方向へと逃げた。

記憶によれば…ウェンデルまでの道はほぼ全て森の中を通っていたはず。

数年の内に大規模な開拓でも行われていない限り、
逃げた先には逃走に適した地形…森が広がっているはずだ。




「――っ…はっ…はぁっ…はぁっ…」

かくして、現在に至る。

「んっ……」

荒い息を一旦止めて自分の音を殺し
周囲の音に集中するが……そこに追っ手の気配は感じられない。

微風にさざめく梢の音に不協和音は無く、
またその音に足音を隠そうとしている緊張感も。

相手が昆虫類の怪物であるなら話は別だが、
爬虫類以上の生物には軒並み明確な意思とそれに伴う気配が存在している。

おそらくここまでの生涯の四分の一ほどを山森の中で過ごしてきたリースの気配感知能力は
音どころか熱や匂いからさえ気配を感じられる野生の獣と同等だ。





「っ…はぁっ…はぁっ…はぁっ……」

止めていた息を吐くと共に脚を緩めて歩き、
そのまま数歩行った所で木を背に立ち止まる。

限界というほどではないが、十数日ろくに動かさないでいた身体にはこたえるものがある。

呼吸が静まるまでのおよそ一分間の内に強張った筋肉を解し、
次の行動に備える。

ともかくもこうして町を離れた以上、やることは一つだ。

父の遺言に従って聖都ウェンデルを目指し、
光の司祭様にお会いして、連れ去られた弟…エリオットの手掛かりを得る事。

差し当たり目指す地点に対し…現地点は……



「………」

呼吸が落ち着くと同時に、方向を定めて歩き出す。

通ってきた道から町に対する現地点に見当をつけ、
そこから地図上のウェンデルの位置を考えると、このまま直進して、大よそ明後日の昼には到着する見込みだ。

荷袋の中身に食べられる物はないが、それに関しては知っている木が幾つかあったのでどうにかなるだろう。

決して楽観はしないが、これだけ深く広大な森があるならば
それだけで街ほどにアマゾネスは生きてゆけるのだ。


ぬるりと、微風がリースの汗ばんだ首筋を舐める。

この地域は今時期雨季なのか、空気が湿っていた。

逃走時に通った道にもぬかるみが多々あって、そのお陰でこれだけ早く巻けたと言える。

あの頭数と身体能力ならば、本来、あと半日は追いまわされていただろう。

道々にイヌ科の動物が嫌う匂いを発する植物の群生地帯が点在していた事も大きい。

振り切ったと感じる少し前には、かなり広大な範囲にわたるそれの群生地帯があり、
これが決め手となったように思われる。

見た所、統率が取れた集団のようだったし、
そういう集団の場合は引き際も潔い。
察するに、もう追跡は行っていないだろう。


と、そこまで考えを巡らせた所で槍を握る手が緩む。


辺りは自然のままの梢の音に虫の羽音と夜の鳥の声。
寝静まった獣の気配によどみの無い空気の流れ。

追走劇にざわついていた森は包むような穏やかさを取り戻し、
ゆったりと寝息を立てている。

状況は安全だ。


………と、思ってしまった辺りが、
やはり彼女の精神状態の不調を表している。


例えば…イヌ科の動物が苦手とする植物の群生だが、
あれは本来、ラビ科の動物が生息する森であそこまでの繁殖を誇れるものではないということ。

逃走中、相当数のラビを見かけている。

それも森のかなり奥の方まで生息領域にしているらしく、
足を止めた地点に至ってもまだそこかしこに眠っているラビの気配が感じられた。

ラビはひ弱な生物であるため、狼から身を守るため率先して件の植物を食べ、その匂いを身に着ける。

従って、ラビの生息領域には、本来あの植物は少ないはずなのだ。


それがあれだけの群生を見せていたということは…一つに、ラビがこの周域に住み着いたのがごく最近の事であるか、
あるいは件の植物が、よく似た別のものである可能性が在り得る。


が、今のリースにはそこまで考えをめぐらせられるほどの余裕が無く、
その頭の中にあるのは、森の中に於ける自分の現在位置と、取るべき進路。
それから先ほど自分を追った獣達についてのみだ。

その考察は中々に的を射たところまで達していたが、

考察の題目自体が既に衰退した精神の誤り。


……例えるなら、馬車に惹かれようとしているまさにその直前、御者の身なりから馬車の所属を考察しているようなもの。


あまりにも大きく連続した緩急極に振れる環境が続いたために、
まだ若い感性が対応しきれず、冷静に混乱してしまっているのだ。


その目は聡く木々の様子から、森の深度と『踏み込んではいけない領域』までの距離を割り出していたが、
迫り来る馬車をそっちのけで、『ここは馬車の通る道ではないので大丈夫』と道の安全性を噛み締めたところで、何の意味があろうか。


―― え ま……


「……?!」


梢の音に混じってあるはずの無い声を聴いた瞬間、
リースは全ての思慮を失った……。



   

 

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