――姉さま…

と、確かにその声は言った。

いや、『そう言ったのは、確かにその声だった』とするべきか。


その声に思慮の全てを奪われたリースが、
足の向きを変えて走り出す。


駆る脚は獣達との追走劇を演じた時の俊足よりも、更に疾い。


加えて、荒い。


上手く避け潜り押しのけて通っていた枝葉や弦を槍の先で強引になぎ払って押し通る様子に冷静さは見られず、
そうする事で瞬く間に息を費やしてしまうことさえ頭にないのか、


「――エリオット!!」


純白の絹を思わせる美しい声を張り上げて、悲鳴のように弟の名を叫ぶ。

すると応じるように


――姉さま……


弱々しい、衰弱しきった様相を思わせるエリオットの声が、
木々の合間を漂い縫って夜闇の向こうから聞こえてくる。








エリオット――それはリースにとってこの悪夢のような日々が始まった
最初の瞬間に失われた、大切な弟の名である。





ローラント城塞の地下、
侵入者――悪夢の象徴である『影』に敗れ、
わけもわからぬ内に連れ去られてしまった、
今となっては唯一の肉親。

生きているのか、死んでいるのかすら定かではない、小さくか弱い弟。

亡き母に代わって面倒を見てきた為か、弟でありながら子のようにも感じられる大切な存在。

自分だけ母の温もりを知っているという負い目からか
幾分過保護に接しすぎてしまい、
その所為で心身とも未だ弱々しいままの、小さなエリオット。


――姉さま……


「――」

一瞬、妙な違和感を覚えて、行く手に垂れ下がる枝葉を打ち払う槍の軌道を損じる。

「……っ」

ザガ、と葉群に混じった枝の鋭利な断面に耳を掠られて血を滲ませる。

が、痛みは無い。

それどころか、払い損じた葉群に顔半分を叩かれた感触さえもが曖昧だった。


――姉さま……


加えて、これだけか細く弱々しいのに、姿も見えぬほどの彼方から漂ってくる声は


――たすけて……


「?!」


一瞬戻りかけた思慮が再び沸騰して使い物にならなくなる。


たすけて、と、弟の声で紡がれるその呪文は悪魔の魔法ほどに姉の思考を封殺せしめるものだった。


エリオット…!! エリオット、エリオット、エリオット……!!!


最後に見た、恐怖と混乱で青ざめた哀れな顔が脳裏に何度もフラッシュバックする。


たすけて…と、『変わらず』か細い声が耳から脳へと達するたびに、
目の前がチカチカと点滅するほど鮮明にあの顔が……胸を押し潰されそうな後悔と、自分への情けなさが溢れ返って涙になる。


この瞬間、間違いなく、リースは正気ではなかった。


混乱していて、まともな判断ができなくなっていた。






だから………いとも簡単に、騙された。






   

 

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