はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、…っ…はぁっ……はあっ…はっ…はぁっ……

激しい呼吸に乾ききった喉を潤すべく唾を飲み込む、
それさえも苦しいまでに乱れた呼吸で、肺がチリチリと痒みを訴える。

僅かな月光で青白く輝く絹肌からは
それ一粒で宝石ほどもの価値を有するような珠汗を滑らせ、
激しい上下に伴って、たゆん、たゆん、と揺れる豊かな実りの谷間を熱く蒸らす。

追走劇が前運動になったお陰か急な限界疾走に脚を痛めるようなことはなかったが、
熱しすぎた太腿から膝にかけての力が入らなくなっているのは確かだ。

仮に今、側の茂みから獣人の追っ手が現れた場合、
リースが逃げ切れる見込みは無いだろう。

……とするならば、姦計は十分に果たされた事になる。

はあっ…はぁ、はぁ、はぁっ…はっ…はぁっ…、はっ…はぁっ…、

目前に揺らぐ謎の光景に、疾駆していた時の表情から一転、
息が上がりざわついた頭では処理しきれない情報に困惑するばかりのリースの顔は
激しい運動に上気して桜色に染まり、妙に色っぽい。

そんな様子を感じ取ってか、
目の前の『それ』が、ごくりと生唾を飲み込む。

飲み下し――

――ねえさま……たすけて……ねえさま……けけけ、

と喋った。

はぁ、はぁっ…はっ…はぁ…はぁ、はっ、はぁっ…はぁっ…

肺底の痒みが引く程度に息が回復し始める頃にわずかばかりの思考能力を取り戻し、
リースは先ほど感じた違和感の正体に気が付く。

――ねえさま……ねえさま……いたい……たすけて……ねえさま

主観からするに、声を聞いてから疾走が止まるまでの時間はおよそ四半(1/4)。

移動力だけならば四足の…それも訓練された獣の脚にすら勝る疾さでの移動距離ともなれば
巨大なローラント城塞の外周を三周りはできるほどの長距離になる。

つまり声は、そんなにも遠くから『か細く』『聞こえ続けていた』ことになり、
物理的に状況を再現するならば
リースとの距離に併せて声の音量を調整してゆくか、
或いは遠距離ではなく、ごく近距離の死角位地を維持したまま
リースと同じ速度で移動しつつ件の声を出し続けるか…だ。

そのどちらもが、少なくとも人間――殊更、魔法やら何やらといった人知外の才に乏しいローラントの血筋であるエリオットにはまず不可能な芸当だ。

したがって、それはリースをこの場に誘導するため、
或いは限界まで疾走させて体力を奪うための、罠である。



はっ…っ…――

苦しい息を堪えてしばし呼吸を止め、
周囲の気配に集中する。

まず最初に考えたのが、この目前で揺れている謎の植物のような生き物が、
獣人達の張った罠ではないかという懸念。

例えば…城を襲撃した『影』と獣人達が同一の集団…或いはなんらか協力関係にあるとした場合、
獲物がローラントの王女・リースであることを知り、かつリースには浚われた弟が居る事を知っていてもおかしくない。

その上で…リースには今ひとつ理解しきれない、魔法という未知の力を用いた仕掛けを用意したのだとすれば、現状に説明が付く。

……が、これもまた違った。

仮に第一考の通りだとした場合、周囲には罠を見張る獣人の気配があるはずだが、
まずそれが微塵も感じられない。

更には――

「…………」

――ねえさま……あうええ……ねえぁぁ……いぁぃ……ぇぇぁぁ…ぉぉぉ……


発音の違和感から勘付き、
極力集中して『声』にではなく、『音』のみに集中すると、

それが『声』のように『聞こえなくも無い』、『音』にすぎないことが判明したのだ。


『それ』は、正確には、ねえさま、とは発音していない。

えぇぁあ…と、喉だけで発音したような音をもらしているだけだった。

それによく聞けば、音の高さこそエリオットのそれに近しいが、
声の特色などは似ても似付かない。


……と、してみるならば、
それはまったくエリオットと関係の無い、ただ奇妙な音を発するだけの『何か』だった。



「――!!」



直後、リースは己が身を襲っている状況に気づき、
咄嗟に飛び退く。

同時に、一瞬前までリースが居た地点…その、脚のあった場所から
虫を捕らえるカメレオンの舌のような速さで何かが飛び出してすぐさま地中に引っ込んだ。


「っ……!!」


引っ込むと同時に、足の裏に感じる僅かな地面の盛り上がりに向けて、槍を突き刺す。

と、



――ぃぁぃ…ぃぁぃぃぁぃ…ぃぁぃぃぁぃぁぃぁぃぁぃぁ…ぇぇぁぁぃぁぃ…ぃぁぃぃぁぃぃぁぃぃぁぃぇぇぁぁぇぇぁぁぇぇぁぁぇぇぁぁ



『口』が何事かを喚きながらぐねぐねと苦しげにのたうつ。


――ィァィィァィィァィィぁぃぃぁぃぁぃぁぃぁけひけひひひひひぃひひひひひひひひひひ!!!!!


のたうちながら…今度は愉快げに哂い始めた。


――けひけひけひ!!
――いひひひひひ!!
――うぐぃひゃぇべべへへへ!!
――ぎゃらぎゃらぎゃら!!
――うぉ@しo.らhdせじゃは!!!


狂った笑い声が反響して、そこらじゅうの木々の声となる。

途端、それまでただの『木』であったもの達に不気味な気配が宿り、
リースは振り返る間もなく、背にしていた木を離れた。


直後、勘の通り、鞭を打つような風切り音が耳をかすめる。

「っ……はぁっ……」

気配に集中するため止めていた息を一旦入れ直し、
酸素不足に白む頭で必死に状況把握を務める。



しかしなんらかの追加要因によって痺れさせられた脳はうまく機能せず、
ただただ六感的な危険信号だけを次々と発して続く正体不明の攻撃を回避させるだけだった。

リースが把握しているのは、自分の状態が万全には程遠い状況にあるということ。

追走撃から続く疾走によって肉体はこれまでに無く活性化しているが
その反面、思考に要する脳は著しく機能を封殺され、
今やただひたすら本能のままに回避行動を続ける事しかできなくなっている。

当然…このままではいつか体力が尽きてしまうだろう。これでは助からない。

しかし、ならばどうするべきか……それを考えようとしても思考がまるで巡らないのだ。

考えようとすれば考えようとするほど脳がジン…と白く痺れ、
未知の感覚を背筋に流し込んでくる。

毒慣らしの訓練を受けた経験から、言語的にではなく感覚的に、自分が何らかの中毒状態にあることを感じる。

リースが最初の攻撃をかわした瞬間に思考したのは、
自分が中毒状態にあるという裏づけについてだった。

正常な状態ならばまず聞き違えるはずの無い、あのうめき声を、
エリオットが助けを求める声と取り違えた。

強く思っていることを幻覚する時、必ずしも人間は心身の正常を欠いている。

それが即ち…中毒状態。

針や何かを刺された記憶が無いということは…麻薬的作用を持つ花粉か何かだろう。

それも、気づかれないほど微量のものを、
恐らくはリースが獣人達から逃げ回っている時点から吸わされていたのだ。

そしてそれが幻聴をきたすに十分な量へ達すると…『口』から声を出して、リースを駆走らせた。

目的は息を乱して機動力を奪う事と、より大量の花粉を摂取させる事。

大きく呼吸を乱しているリースが摂取させられた量は、
思考能力を人間の水準以下に落とし込み、
流麗とも言えるしなやかな回避動作を徐々に徐々に単純化させていく。

集中力が急速に損なわれ、
攻撃が何度も腕や脚を舐め滑る。

四方八方から軌道不定な鞭状の攻撃が獲物を踊らせようとするかのように襲い掛かり……

「――」

気づけばあたりは瘴気に満ち、


リースは全方位を、得体の知れない生物に取り囲まれていた……。





   

 

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